パチ・ウソビアガの軌跡:世界選手権の優勝、そしてトレーナーへの転身

2018.8.30

2009年当時、ブラックダイヤモンド(以下BD)アンバサダーのパチ・ウソビアガは、間違いなく最高のコンペティターだった。この年彼は世界選手権で優勝し、クライミング界に長くその名を残したが、彼の背後にはチェコ出身の若いクライマーが迫っていた。その年2位の成績を収めたアダム・オンドラだ。パチは、その若いクライマーの内に宿る炎に気づき、新しい夢を手にした。それは、パチにとっての希望の光だった。現在パチは、再びコンペティションのために日々熱心に活動し、オリンピックを目指している。かつてのような選手としてではなく、アダム・オンドラのコーチ兼トレーナーとして。パチがどのようにして2018年のインスブルック世界選手権へとアダムを導いたのか、これまでの彼の軌跡を語ってくれた。


私がこの素晴らしいスポーツにここまで熱心になったのにはいくつか理由がありますが、確かに私の両親のおかげかもしれません。両親は何事にも寛容で、私と兄弟が幼いころから山に親しむ機会を与えてくれました。そして、周りの友人や家族からの批判には耳を貸さず、10歳の少年の「岩を登りたい」という願いを叶えてくれました。兄弟の誰一人として、ましてや母も父も、クライミングをしたことがなかったのに。エイト環の使い方を学び、父親に教えたのは私でした。彼らが忍耐強かったおかげで、それから28年経った今でも、私はこの素晴らしいスポーツを心から楽しんでいます。数々の困難や、新しいクライミングスタイル、様々なタイプの岩などを通じて、クライミングはいつも新たな学びを与えてくれます。クライミングから学ぶことが無くなることは、決してないでしょう。

クライマーが自分自身を常に進化させようとするのは本当に素晴らしいと思います。皆、毎日起きたら笑顔で挨拶し、とりかかるべき新たな目標を見つけ、より逞しくより良い自分に成長し続けようとしています。

私が10歳の時、毎朝起きたら何が楽しみだったかというと、地元のエイバルにあるクライミングジムに行ってクライミングシューズを履き、『デスニヴェル・マガジン』に載っていたスタークライマー達の真似をすることでした。クライミングについて語られた文章が載っている半ページ分の記事を、少なくとも100回は読み、そこで語られている数々のハードルート(フレンチグレードで8a以上)はどのようなルートなのだろうかと想像を膨らませました。こんなグレードは私には一生登れないだろう、とその頃は思っていました。当時90年代初頭にトップクライマー達がこぞって履いていたカラフルなタイツを、探したりもしました。ヒールフック、ヤニロ(フィギュアフォーのこと)、ドロップニーなど、『Learn to Climb』(スペイン語のタイトルは『Aprende a Escalar』)に載っていた、ありとあらゆる新しいテクニックを試していました。自宅から近い場所にクライミングエリアがあり、かつ、両親にとっても私にとっても、スポートクライミングが手軽で便利だったことから、私は少しずつ(その他のクライミングスタイルよりも)スポートクライミングに傾倒していきました。さらに、既に11歳の時にはコンペティションの舞台でアドレナリンが出る自分に気づいていました。コンペティションは、私にとって最も大きなモチベーションの源泉で、自分をクライマーとして進化させてくれる機会と捉えていました。内なる恐怖と向き合い、打ち克つ方法を習得したことで、ワールドカップや世界選手権で勝利を収めることができるようになりました。世界中のクライミングエリアで、たくさんのルートを完登することもできました。私の頭にあった目標はたった一つ、「毎日、昨日よりも少しハードなルートを登ること」だったのです。

こんな場面を想像してみてください。ある朝目を覚ますと、2009年の世界選手権まであと2か月という状況にあなたは置かれています。恐ろしくなり、自信を失ってしまいます。果たしてコンペに出たいのか。そこまで強くないかもしれない。そもそも、この行為に価値があるのかも分からない。こんなときは、何年も(私は10歳の頃から)憧れ続けた舞台にこれから立とうとしているんだ、と自分の気持ちを再確認しなくてはなりません。スタークライマーたちがかつていた場所に、私もやっとたどり着いたのだ、と気が付きました。一生懸命にやればどんなことも可能になるということを、彼らは教えてくれました。今でも目を閉じると、こんな感情が押し寄せてきます。そして子供の頃、初めてコンペティションに出た日のことを思い出すのです。大きすぎて腰からずり落ちそうになっている初めてのハーネスのことや、そのハーネスから膝のあたりまで垂れ下がっているクイックドローのことなどを。

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Javi Pec

そして2か月が過ぎ、2009年7月5日、世界選手権当日になりました。私は、世界選手権決勝のルートを完登し、ロワーダウンし、ロープをほどきました。その後、私の人生を変える出来事が始まったのです。そこには、出てきたルートを全て登ってしまう、若きクライミングマシーンがいました。この2009年世界選手権、アダム・オンドラは素晴らしい高度まで達しましたが、2位に終わりました。たった一つのホールドが、彼が世界選手権チャンピオンになることを阻んだのです。最後のTOPホールドは、私をチャンピオンの座へと導いてくれました。そしてこの出来事が新たな物語への入り口となったのです。ここから私の人生の新たな章が始まりました。クライマーとしても一人の人間としても、私が人生で出会った中で最も傑出した人物の一人が、登場したのです。

その後、頸椎の怪我が原因でコンペティションの世界から引退し、2年以上クライミングから距離を置いていました。それにもかかわらず、アダムは私に対して絶大な信頼を寄せてくれました。彼の持つ熱量は、周囲の人々をその気にさせるのです。彼は、常により良くより高く登りたいと渇望していました。また何よりも、“本当に思い描いた通りに登れるだろうか?”と自分自身を疑ってしまう心の弱さに打ち克ちたい、と考えていました。彼が私を復帰する気にさせたのは、ちょっとした偶然からでした。もう一度クライミングシューズを履いて新たな挑戦をしないか、と彼は私を誘ってくれました。私は、怪我のせいで思うようにクライミングできなくなっており、これからもずっとそうでしょう。それにもかかわらず、クライミングは再び私の生活の一部となりました。今や私は、年を取り、髪も薄くなり、いつも身体に痛みを抱えています。でも、この夢への想いが、私たち二人の内にあるものすごいパワーを引き出させてくれるでしょう。

2018年の今日にいたるまで、私の生活はクライミングを中心に回り、私の人生の半分は、より良いクライマーになるためのトレーニングに費やされてきました。そして今、クライミングが2020年のオリンピック種目に選ばれることが現実となりました。これはクライミングにとって革新的な出来事です。そして、この世界中のアスリートにとって最も重要なイベントを、アダム・オンドラと共に迎えられたら、と思います。私たちが愛し身を捧げてきた、私たちの人生にとって最も重要なこのスポーツが、ついに世界から祝福されるそのときを、喜びとともに噛みしめたいと思います。このスポーツが世界に向けて発信される時が来たとき、色々な世代の人々が、我々クライマー達の軌跡を知ることになるでしょう。スポートクライミングでも、エイドクライミングでも、トラッドクライミングでも、コンペティションでも、ボルダリングでも…、どのクライミングスタイルであれ、クライマーの最終的なゴールは同じです。「よりハードに、より高く登る!」

-- BDアンバサダー パチ・ウソビアガ
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