HAZEL FINDLAY IN SOUTH KOREA

2020.5.22

ブラックダイヤモンドのルーツ=根は広く深く伸びている。例えば韓国のクライマー達との偶然の出会いは80年代半ばのことだったが、今や彼らは優れたBD代理店に成長している。韓国は世界のクライミング界に波を起こしている。ソ・チェヒョンのような若き天才たちが、いとも簡単に壁を乗り越え、ワールドカップで勝利を挙げているのだ。そんな中、BDアスリートのヘイゼル・フィンドレイとコレット・マキナニーは韓国でのBDのルーツを探り、成長し続けるカルチャーを体験しに行こうと考えた。そのカルチャーはクライミング界の世界遺産とも言えるものだ。コレットが制作した美しい動画をご覧いただき、彼の地のクライミングを垣間見てほしい。


Video and Images:
Colette McInerney

「韓国に行くの!?」

ラス・クルーンは興奮気味に同じ事を言ってきました。「今度ヘイゼル・フィンドレイと韓国へロックトリップに行くの」と私はハッキリ言ったはずなのに。

「もしもジュン・ホウジンに会ったら、よろしく伝えて!」とラス。20年以上も前にソウル郊外の岩場で偶然出会ったクライマーに私が出会う可能性はものすごく低いですよ、と言おうかと思ったけど、面倒なので止めました。ラスは当時の旅やその半島への愛、そこにある豊富な岩について誇らしげに話し続け、私は丁重に微笑みながら聞いていました。その話によると、彼が訪ねた1985年の時点では、まだ韓国ではトラッドクライミングの様式が確立されていなかったそうです。多くのルートはまだエイドで登られている段階で、フリーでは登られていなかったのです。ラスのニューヨーク仕込みのオープンな人柄と、変革期のヨセミテのフリークライミングシーンでの経験のおかげで、ジュン・ホウジンの案内で何本もの未登のラインに連れて行かれ、その多くでフリー初登攀を達成しました。そして、その過程でジュンは彼の生涯の友人となりました。

時は流れて2019年。韓国のクライミングは世界的に見ても遜色のないレベルに成長し、世界トップレベルのクライマーを何人も輩出しています。ヘイゼルと私は、いろいろな意味でぼろぼろの状態でソウルに到着しました。私は、国際線で日付変更線をまたいできたばかり。ヘイゼルは、モンゴル奥地に1か月半滞在し、いくつものルートを開拓・初登してきたところ。そのせいか、当初からヘイゼルが何度も訴えたのは、プランを決めずに過ごしたいということでした。基本的に客人を過剰に(少なくともアメリカの標準に比べれば)おもてなしするのが韓国の文化なのだと話したら、冒険好きな彼女の心は萎えてしまいました。きっと、細かな予定管理も、スケジュール帳も、時間で区切られた夕食の予定も、すべて彼女にとってまさに興ざめなものだったのでしょう。1年近く住んでいた私の経験だけでアジア文化について断定的に語ってはいけないとは思いますが、たいていの場合は流れに身を任せ、ホストがベストだと思っていることをしてもらう方が上手くいく、と私は知っていました。ホストとはそういうものです。有難いことに、ヘイゼルは簡単に妥協してくれて、ホテルの部屋にガイドブック類は置いて出かけたけど、ほとんどの日は予定に従って過ごしました。私たち二人は流れに身を委ねたのです。

私たちはまず、ソウルから南へ約4時間移動し、鎮安(チナン)にある小さな漁村で涼を取りつつボルダリングをすることにしました。 BDコリアのキム・ウーキュンとリー・スーハンは私たちの案内役になり、通訳をしてくれました。その地域で一番のクライミングエリアに連れていってくれた上に、(これが多分何よりも重要なのですが)韓国の美食に案内してくれました。翌日は時差ボケと旅の疲れを取りがてら、鎮安でボルダリングをして指皮をすり減らしました。このエリアは川沿いののんびりした場所で、易しめの被った岩がいくつも点在していて、日中気温が高くなったら水に浸かることもできます。私たちが見たのはこのエリアのほんの一部で、もっとたくさんのボルダーが転がっていて高難度課題があることも想像に難くありませんでした。しかし、大きな岩壁が私たちを呼んでいました。時間は有限なのです。

噂に聞いていた荘厳な花崗岩の岩壁をなるべくたくさん堪能したいと思い、次の5日間はほぼ毎日新しいピークかエリアで登ることにしました。私たちは、道峰(ドボン)、仁寿峰(インスボン)、北漢山(プッカンサン)、そして雪岳山(ソラクサン)に向かいました。

ソウルの弘大(ホンデ)地区にある都心のホテルから、仁寿峰山頂や仙人峰(ソニンボン)といったクライミングエリアに囲まれた大自然へ「通勤」するとき、いつも非現実的な気分でした。花崗岩ドームを目指すアプローチの道中、眼下の街は徐々に小さくなったかと思うと次の瞬間無秩序に広がり、管理された無秩序とも言うべきものを鳥の目で俯瞰しているかのような錯覚に陥るのです。

花崗岩中毒なら誰でもそうであるように、ヘイゼルも最初のエリアに到着するとその景色に驚愕していました。滑らかな花崗岩の中に美しいラインが天に向かって一直線に伸びているのです。絶壁や丸く突き出たバットレスの中には、オフィズスからワイドクラック、スプリッターのハンドクラック、フィンガークラックまで何でもそろっていました。私はクラックに精通しているわけではありませんが、一目見てそれらが良質のものだということが分かりました。仙人峰と仁寿峰頂上直下の岩壁は、アメリカで私が出会ってきたルートと同じくらい高いクオリティーを備えていました。

シングルピッチのルートをいくつも登りましたが、その中でも最も有名なものはコキリクラック(5.11b)です。英語ではエレファントロックと呼ばれています。でもこの旅の間、ほとんどの日はマルチピッチがメインイベントでした。迫力ある数々のピッチを登って壮観な頂上にたどり着くと、遠くにはさらにたくさんの岩山。ここには登れる岩壁があとどれほどあるのだろうとただ想像しました。

韓国クライミング史に残る歴史的ルートの数々を堪能する一方で、ヘイゼルはローカルのジムに招かれ、ビデオ上映をしたりワンポイントレッスンをしたりしました。そこで私たちは、コンペで活躍中の将来を期待される天才クライマー、ソ・チェヒュンに会うことができました。彼女は14歳にして5.14dを完登しただけでなく、ワールドカップ出場わずか2回目で優勝もし、オリンピック代表権も獲得しそうな勢いです。ここ数年、韓国のコンペティターがどんな特別な手法を使って勝ち続けているのか、多くの人が不思議に思っているでしょう。私が韓国で見たのは、トップクライマーから一般のクライマーまでみなが高いモチベーションを持ったコミュニティーでした。彼らは、クライミングの一側面だけ取り上げてそれこそが重要だというような区別や主張はしていませんでした。彼らはみな同じ1つのコミュニティーにいるクライマーで、彼ら自身とクライミング全体を次のレベルに押し上げようと懸命に努力していたのです。

旅の終盤のある日、ウーキュンとスーハンから、仁寿峰にある有名な「シュイナードA」というルートを、BDコリア社員のみんなと一緒に登らないか、と提案されました。最初、私たちはそんなにたくさんの人数で同じルートを登ることを少し不安に思いました。言語の壁があるのでビレイポイントで意思疎通できるか不安だったし、同時に写真やビデオの撮影もしようと思っていたからです。でも、私たちの心配は杞憂に終わりました。その日そこに来たのはベテランクライマーばかりで、韓国のプロクライマーの一人、リー・ミョンヒーが私たちと一緒に登ってくれたからです。

下に戻ると、BDコリア社員チームの方々とざっくばらんに話をすることができました。何人かの年配クライマーたちが、この地域の歴史や、下部の森でキャンプしながら(現在は禁止)岩壁で過ごした数えきれない日々について語ってくれました。ある年配クライマーとおしゃべりしていると、何年も前にアメリカ人のラス・クルーンがソウルに訪れたときの話をし始めました。韓国のクライミング界が刺激に満ちあふれていた時代のこと、新しいフリールートが次々に完成したこと、生涯の友情の始まりのことなど、同じ話を何度も繰り返し語っていました。この人、ジュン・ホウジンは、現在BDコリアの社長であり、今なお現役で活動するクライマーだったのです。ラスに会ったら「よろしく」と伝えてほしい、と頼む彼と一緒にセルフィーを撮り、すぐさまラスに送信したのでした。

-- コレット・マキナニー
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